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高知県無痛分娩提供体制構築プロジェクト ─ 無痛分娩ゼロからの挑戦 ─

医学科 河野 崇 教授/麻酔科学・集中治療医学講座

ゼロからの転換――無痛分娩が選べない県を変える

 2024年度まで、高知県と岩手県では無痛分娩の実績が一例もなく、分娩時の疼痛緩和という“世界標準”の選択肢は県民には届いていなかった。長年にわたる産科医・麻酔科医不足に加え、無痛分娩に必要な機材導入やスタッフ研修にかかる費用を確保しづらいという財政的課題が大きく立ちはだかっていたためである。
 この閉塞状況を打破する第一歩として、高知県と高知大学は2025年3月に連携協定を締結し、同年7月に大学医学部へ産科麻酔科学講座を新設することになった。県は2025~2027年度の3年間で総額5,400万円(各年度1,800万円)を投じ、周産期産科麻酔支援プロジェクトを支援する。講座を率いる淀川祐紀特任教授は、産婦人科と麻酔科の両方で専門医・指導医資格をもつ国内でも稀少なダブルボード医師であり、多職種のハブとして機能できる点が大きな強みだ。岩田英樹特任講師、大黒太陽特任助教、助産師・看護師らが参画したチームは、県内どこに住んでいても無痛分娩を安全に選択できる体制を段階的に整備するという明確な目標を掲げている。

連携協定締結式

三つの推進エンジン: 無痛分娩導入、教育研修、人材循環

 推進エンジンの第一は無痛分娩の迅速な導入である。2025年度は計画分娩を対象に小規模パイロットを実施し、硬膜外麻酔の導入手順や疼痛評価シートを標準化することから始める。得られたデータを基に安全指標を細かく設定し、医師・助産師間での情報共有を徹底したうえで、翌年度から帝王切開や合併症妊婦の麻酔管理へ適用範囲を拡大する方針だ。最終年度にはローリスク分娩を含む広い症例に対応し、主要分娩施設で無痛分娩が日常的な選択肢として提示できるレベルを目指す。
 第二の推進エンジンは教育研修の高度化である。講座に新設した周産期麻酔研修プログラムでは、基礎理論の講義、シミュレーターを用いた硬膜外挿入手技の訓練、さらに分娩室を模した模擬環境でチーム演習などを行う予定。大量出血や胎児仮死といった緊急事態を含むケースシナリオを組み込み、医師だけでなく助産師・看護師が主体的に役割を遂行できるようする。一定の到達度に達した受講者には履修証明を発行し、県内の病院間で人材を共有する際のスキル証明として活用する計画だ。
 第三の推進エンジンは人材循環モデルの構築である。フェローシップ制度を通じて周産期麻酔に関心を持つ若手医師を育成し、基幹病院での集中的な研修後に地域中核病院へ派遣する循環型配置を取る。これにより、知識と技術が院内に留まらず県全体へ波及し、プロジェクト終了後も持続可能なネットワークが維持される仕組みを作る。

ロードマップ: ゼロを塗り替える三年間の航路

 2025年度は準備と試行のフェーズである。計画分娩を対象とした無痛分娩実施により安全基準を精緻化し、妊婦向けリーフレットを制作して啓発を進める。早期から相談窓口を設けた結果、無痛分娩に関心を示す妊婦は前年を大きく上回り、出産施設選択時の重要な判断材料となりつつある。
 2026年度は拡大と定着のフェーズへ移行する。ハイリスク妊婦の麻酔管理を正式に開始し、体制整備を進める。同時に、術前評価と精神的サポートを一体化させることで、妊婦の不安軽減と術後満足度向上を図る取り組みを行う。また、無痛分娩に関する研修プログラムは、院外の医療者も学べる公開セミナー形式へ拡張される見込みだ。
 2027年度には県全域展開のフェーズに入り、ローリスク分娩でも無痛分娩を安定して提供できる体制を実現する。講座では鎮痛効果や薬剤投与量をリアルタイムで解析するツールといった分娩進行と疼痛緩和の最適バランスを探る研究も開始する予定だ。住民説明会やオンライン講演会を通じ、無痛分娩に関する最新知見を地域に還元しながら、次世代の周産期医療モデルを構築していく。
 無痛分娩は疼痛の軽減だけでなく、産後の回復促進や母子関係の早期安定、さらに産後うつ抑制に寄与する可能性があると報告されている。高知大学医学部の周産期産科麻酔支援プロジェクトは、単に新たな医療サービスを導入するだけではなく、妊娠・出産を取り巻く県内の医療文化そのものを刷新しようとする取り組みである。ゼロからの挑戦はまだ始まったばかりだが、県と大学が一体となったこの挑戦は、「痛みを我慢する出産」が当たり前だった現状に確かな変化をもたらしつつある。
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河野 崇
医学科 河野 崇 教授 麻酔科学・集中治療医学講座